第07話  「幻の黒鯛の渡り その1」   平成25年01月15日

 晩秋になると庄内のあちら此方で黒鯛の渡りが釣れたと云う情報が飛び交った時代がある。自分が最後に渡りに出会ったのは、昭和の末期であった。最後の黒鯛の渡りに出会ったのは埼玉で仕事をしていた従兄弟が仕事を辞めて、帰京した年である。忘れもしないあれは113日の沖合が少し時化て北防波堤の先端部を時々波が洗っていた日である。昔から寒くなって来ると、北に住む黒鯛は、群れを作って何回かに分けて暖かい南の方の海に移動して来ると信じられていた。沖が時化ると河口や磯の大きな澗()や港の中に大きな群れが入って来る。だからそこで釣れば大漁間違い無しと云う訳である。ただし、磯場では、休憩で入って来るとも云われていた。
 北防波堤の曲りから先端に向かって内側50m程の間に1m間隔で50人ほどの釣り人がびっしりと並んでいた。手前には入る余地がなく、先端に近い内側の階段付近の先の隙間が有ったのでどうにか三人が陣取る事が出来た。その日は夜明けに北港で釣っていたが、釣果が無く止む無く9時半過ぎに北突堤に移動して来たのであった。渡りに出会うと云うのは運不運がある。自然の様々な条件がそろわないと、その群れに出合うことは決してないのであるからだ。
 私の長い釣り歴でもほんの数回と数えられるだけである。この群れはあまり大きくはなかったが、まずまずの型の黒鯛が釣れた。ヘラ竿改造三間の中通し竿に道糸2号、ハリス1.5号、ガン玉2B、チヌバリ3号にオキアミを付け、餌を潮に乗せて落とし込む。錘は軽く潮に流されて浮き上がらない程度で良い。バカを二尋ほど取り、穂先を海面近くに垂らしてやる。この辺りは深さ5m程度だ。潮の流れがあるから、少々バカを長くとった方が良い。この当時の撒餌は、オキアミに砂をまぶした物を時々ポイント付近に投げ込むのが主流だった。これが鶴岡の釣り人だったら、オキアミの直播きをしている。
 高さ4m程の防波堤である。時々後ろ北側の大型テトラポッドに波がぶっつかって、飛沫が飛んで来る。ここは河口である。通常は左から右に流れるのだが、時々左からの強烈な潮の流れがやって来る。すると餌は潮に揉まれて、底から自然に舞い上がりそして又底に落ちて行く。その動作が、黒鯛には、自然に見えるのだろう。群れは、30分置き位に、行ったり来たりした。まず端の方から次々に釣れ始める。隣に釣れると次は「自分の番だ!」と分かる。ところが、必ず魚のアタリが来るとは限らない。其処が運不運の差が出て来るところである。磯で魚を集めて釣る釣りと防波堤での釣りとの差が出て来るところだ。
 北防波堤での渡りは、大体が一尺から尺二寸と大きさは決まっている。大体渡りの群れは、沖荒れした時に港内に入って来る。小型の物は、港内奥にまで入って来た。防波堤に高さの何倍か波が、被っている時等に大釣れする事がある。釣りに来たが竿が立てられず帰ろうかと思っていたが、試しに釣ろうと思って撒餌を入れた。昔、南突堤の付け根付近に石垣があり、其処は岸から徐々に深くなると云った場所にトーフ石があった。そのトーフ石の陰でしか釣る場所がなかった。棚は一尺しかない。最初餌取りのフグが集まって来た。その内大きなアタリが出るようになった。「何かいる!」と判断し、バカを短くして、アタリに専念するとやがて最初の一枚が来た。八寸オーバーの黒鯛の立派な三歳物だった。撒餌が効いて来た頃になると入れ食い状態となる。一時間余りで三十枚を超えた。群れに当たれば、そんなものだ。たった一人での釣だったから、三十枚と云う釣果が出たのだ。
 北防波堤での釣りでは、人が多いので一人当たり尺物5枚も釣れれば良い方であった。それでも50人近くの釣り人が要るのだから、一朝で200枚以上の黒鯛が釣れるのである。会社があるので、魚の都合に合わせる事が出来ない。日曜釣師の辛さがあった。それでも早朝釣師達は、朝暗いうちから出かけ7時に帰宅そして食事を7時半に食べ、直ぐに出社と云う強者も少なからずいた。そんな人はその後の渡りを経験した人がいる。自分はその時が最後に経験した渡りである。